私の祖母は認知症でした。 祖母に異変が起きたのは私がまだ高校生の頃でした。

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認知症と向き合う

私の祖母は認知症でした。


祖母に異変が起きたのは私がまだ高校生の頃でした。


祖母とは生まれた時から一緒に住んでおり、両親は共働きだった為、私は小さい頃からお婆ちゃんっ子でした。


学校の話や友達との出来事など、祖母に話すのが日課でしたが、だんだん同じ話をするようになってきました。


70歳を過ぎ、毎日家で編み物等をしている祖母だったので、少しボケてしまったのだと、最初はあまり気に留めていませんでした。


しかし、祖母の繰り返しする同じ話は日を追うごとにエスカレート。


1年後には、10分置きくらいのペースで炊飯器のスイッチを入れたか?と聞きに来るように


「様子がおかしい」という事はわかっていたものの、自分の家族がまさかと、認めたくない気持ちと、度重なる同じ質問にイライラが募り、家族間はぎくしゃくしていきました。



次第に祖母は、近所を散歩しては「お財布が無くなった」「お金を盗まれた」などと、被害妄想が激しくなっていきました。


その頃、私はもしかしたらと、認知症について調べていました。


驚く事に、初期症状に書いてあった事はまさに祖母そのものでした。


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病院に行き、認知症との診断が下り、薬を飲みながらデイサービスに行く日々が始まりました。


デイサービスはとても楽しかったようで、毎週とても楽しそうに通ってました。


しかし、ときが経つに連れ、祖母の口から私の名前を聞くことが無くなり、ついには私の事を忘れてしまいました。


お婆ちゃんっ子だった私は、忘れられてしまった事が辛く、就職を機に家を出て暮らすことに。


自分の母親が認知症だと言う事実をなかなか受け入れられずに居た母も、介護に向き合う事を決め、色々と行動に移していました。


その後は見ていられないくらい辛い現実でした。


実の娘である母の事も忘れ、徘徊が始まったり、暴力的な日もありました。


粘土をたくさん食べてしまったり、庭で排泄してしまったり


冷蔵庫の中身が全てなくなってしまった日もありました。


近くに住んでいたので、たまには顔を出していましたが、介護に向き合っていた両親はとてもつらい毎日だったと思います。


次第に、徘徊したりする体力もなくなり、寝たきりになると攻撃的だった今までとは真逆な温厚な性格へと変わっていきました。


誰が来ても、「ヘルパーさんありがとう」等と微笑んでいました。


それは「認知症が最終段階に来ている」事でもありました。


そして、数年ぶりに家族全員が揃った翌日、祖母は永眠しました。


その日を待っていたかのように



もちろん私の事なんて忘れていましたが、亡くなる前日の夜、姉と一緒に祖母の部屋を訪れた時に「孫かな?」と微笑んだのです。


それが大好きだった祖母と最期に交わした言葉でした。


なかなか受け入れる事が出来なかった両親も最期まで自宅で母を看取る事が出来、それは簡単な事では無いと私の誇りです。


祖母もきっと幸せだったと思います。


そして祖母が永眠した翌月、私は娘を出産しました。


命は巡り巡って繋がっていくものなんですね。


きっと祖母は天国から私と子供達を見守ってる事でしょう。

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